2006-11-01 第165回国会 衆議院 厚生労働委員会 第4号
例えば肺がんだとか肺結核、肋膜炎、肺炎、こういうことも四十歳に満たない人たちにだって発生するわけでありますし、そういうようなことにおいて、胸部エックス線を見直そうということの趣旨、内容について御見解をいただきたいというふうに思います。
例えば肺がんだとか肺結核、肋膜炎、肺炎、こういうことも四十歳に満たない人たちにだって発生するわけでありますし、そういうようなことにおいて、胸部エックス線を見直そうということの趣旨、内容について御見解をいただきたいというふうに思います。
しかし、エックス線ぐらいですと、これはひょっとして昔肋膜をやって自然に治った跡じゃないかぐらいでも、CTかけたらやはり胸膜肥厚というのはわかるわけですね。
そういう事実を知っておれば、この患者さんがアスベスト暴露者であるということが明らかであるんですけれども、日本の多くの先生方は、これは昔の結核の名残だと、あなたは結核性の肋膜炎をやったでしょう、昔結核をやったんですねということで、患者さんが、いや、私はやっていないというふうに述べても、いや、あなたが知らないうちにそういうふうになっているんだという事実を聞いて知っております。
しかし、太平洋戦争の戦火が拡大する中、第一回学徒出陣で和歌山連隊に配属、肋膜を患われ帰郷された後、医学の道に進むことを決意されました。日本大学医学部に進学された先生は、卒業後も研究室にとどまり皮膚科の病理学を専攻、博士号を授与されるなど研究者として研さんを積まれるとともに、教育者として後進の指導に当たられ、昭和四十年三月、日本大学医学部教授となられたのであります。
近藤先生は、去年の一月半ば、当時の宮澤総理大臣に内閣官房副長官として同行し、ASEAN諸国を歴訪中体調を崩し、肋膜炎と診断されましたが、持ち前の責任感の強さから、猛暑の中をPKOカンボジア派遣隊の慰問を強行されました。帰国後、医師の本格的な治療を受け、二月の終わりには公務に復帰されました。私も何回となく無理しないように進言したのですが、何としても責任を果たそうという決意を翻そうとしませんでした。
肺炎、肋膜とは思いませんけれども、そのときに大きな手術をするということは大変心配でございまして、この問題も相当に慎重にお考えいただきたい。 これは法律問題ですから、まさに国会の問題になるわけです。
頭が悪くなるとか痔になるとか肋膜になるとか、そういう思想的な指導をやっておるような学校がえてして需要拡大運動に不熱心、教育委員会もそれを野放しにしておる。文部省にもっと積極的に指導する用意はあるの。通り一遍のことじゃいかぬよ。本当にやりなさいよ、頼むから。
これは身体に害を加えられたわけでございますが、それで外部的なけがをすれば負傷でございましょうし、たとえば肋膜炎というような疾病を生ずる場合もあるという、外科的、内科的というのはそういう意味でございますから、害を加えられた結果によっていわば二種類の結果が生ずるということはあり得るであろう、そういう説明を申したつもりでございます。
ただ、この研究は、東京、神奈川、埼玉、千葉ですか、それから静岡、石川、その辺の老人健診の一万枚のレントゲンを集めたその結果、肋膜肥厚斑、これは非常に鮮明にガラス状の肥厚斑が出てくるわけですけれども、それを抜いて職業歴、生活歴を調べたわけですね。それで追跡調査をやったわけでございます。
最近発表されました日本産業衛生学会で、労働科学研究所の海老原先生が、老人健診の際にもレントゲンの直接写真では、東京都内の老人二千四百四十九人中八十三人にアスベスト特有の肋膜肥厚斑というのがあらわれたというふうに言われておりますし、曝露量が比較的大きいことが予想される副次的職業性曝露というもの、あるいは近隣曝露。
負傷の加療中に別の病気、肺浸潤なら肺浸潤あるいは肋膜炎なら肋膜炎を併発しておった。ところが陸軍病院の方では負傷だけに重点を置いて、併発した内臓の疾患については、治療はしておったけれどもそうしたことが表面に出ていなかった。ところが、帰ってきて死んだ。
次に、臨床並びに理化学検査の結果について申し上げますと、内科検診、胸部エックス線検査につきましては、特に胸部のエックス線有所見率は、尼崎五例、西宮六例、芦屋三例、計十四例の一二%で、そのほか陳旧性肋膜炎三例、安定化した肺結核症状が六例、心肥大が三例、肺気腫が二例であります。
しかし抑留されていて、肋膜になって、それから肺結核になって、しかもそれが全部認められて、三十二年に上葉肺を切除して、そしてもう休も弱って、胃も手術して、そうして結果が急性肺虚脱で死んだ。それならば、これは急性の肺虚脱であって結核ではないということでだめなんですね。手術するときに同じような病気がもうすでに前からあったのだ、それほど衰弱していたのだ、この辺まで当然考えられませんか。
これはもう抑留されていて肋膜炎になっている、それから肺を患ってしまったのです。そして二十三年に帰国したのです。そして肺結核になってしまったわけです。入院したけれども、もうそれまでの間に、戦地から帰ってきたときに体は大分疲弊しておった。そうして上葉肺ですかこれを切除した、その後また胃潰瘍で手術した、そしてまた十二指腸潰瘍で手術した、しかし急性肺虚脱で呼吸困難で死んでおる。
○島本委員 この案件は、二十一年に抑留地で肋膜炎になった、二十三年に帰国した、二十八年に肺結核になり、ずっと療養所生活だった、三十二年に上葉肺を切除した、三十四年に胃潰瘍の手術をした、そして三十五年に十二指腸の手術の際に急性肺虚脱で死亡した、この死因は急性肺虚脱であり、認定しておった肺結核とは関係がない、こういうようなことで、これは公務に起因するかしないか、ほとんどこれはもう紙一重、疑わしきはとるかとらないか
あなただって肋膜で入院して、ほかの病気、またはそれによって出てくる——弱っているから当然他の病気も出るんですよ。その場合、一つの病気だけはやるけれども、そのほかのものは全部だめなんだ、こういうようなことになったら、一番恵まれない階層の人が一番残酷な仕打ちを受けることになるじゃありませんか。その辺の救済をもっと考えるべきじゃないかということなんですよ。
その場合に、価格の暴騰を防ぐためにやはり総需要の抑制というワクだけはがっちりやっておいて、需要面から価格が上がってくるということをまず防いでおくということ、それから個々の物資に対する解除というようなものにつきましては、できるだけ自分の体内で吸収できるように、まあ肋膜の水が、からだがじょうぶになればからだの中で吸収されるように、そういう形でできるだけ吸収できるような形でいってもらう、しかし、やむを得ずはみ
こういうようなことで個々のケースにはやってまいっておりますけれども、やはりその途中でいろいろの合併症が起こる、あるいは肋膜炎等によって癒着が予想以上に激しくなる。こういうようなことでいわゆる低肺機能というような結果が起こったわけであります。
文部省は、私が肋膜でなおりかけのときに、体操の先生が、おまえはクローバの野原で涼しい風にでも吹かれて休んでおるのが、これが教育体操である、こういうふうに教えられたらよかったが、機械体操に下がらして、五回下がったら点数をやるよということで点数のために私のからだを犠牲にしました。コンサルタントの数、これは精神衛生、それから学校医の待遇について一応わかる資料をいただきたいと思います。
私は本人のその後の状態を聞いてみたんですが、必要にぐあいが悪かったので、すぐあくる日に東京に帰ってきて、さっそく診断を受けた、そうしたところが結核の病状とともに、肋膜炎までも併発していたというような診断書が出ているのを私は見たわけでございますが、この事実から推察していきますと、かなり無理な転任をさせたな、こう考えるわけであります。
少なくとも私が結婚をする当時においては、やはり相手が結核であるか、肋膜炎をやったことがあるかどうかということが、診断書交換の主目的だった。時代とともにこういう診断書の対象も移り変わってくることになる。われわれのときは少なくとも結核だった。肋膜炎を相手がやったことがあるかどうか、これはやはり診断するときやってみる必要がある。というのは、いまから二十四、五年から三十年前は、結核というものは業病だ。
たとえば、これは私の身近な問題でございますけれども、北ボルネオか何かに二回くらい派遣をされて、そして昭和二十一年にマラリアで帰ってきましたが、その時分はああいう混乱した時代でございますから、子供も何人もあるので、つとめをしかけたのですが、からだが悪いためにつとめができなくて、そうしていろいろ医者にかかったりしている間に栄養失調と、そのうち肋膜も悪かったりいろいろ病気が併発いたしまして、最後には食道ガン
そして肋膜炎として診断された。それで野戦病院なら野戦病院におって後方に送られてきた。それから除隊になった。その後今度は肺結核という病名で診断された。その場合に、今日の医学では、肋膜炎というものがありますときには、必ず原発の病気として肺結核があるという考え方になっているわけです。ところが、以前は、肋膜炎というものと肺結核というものは別のものだと考えていた。
今日、結核、肋膜炎が非常に少なくなってまいりましたが、しかし、それらの病原菌を殺すところの薬のもとであるカビが、逆に人間のからだに取りついて、カンジダといったものを起こすおそろしい病気もございます。昔はペニシリンというものが十万単位で私らきいたといったものでございますが、現在では五十万、百万単位でもなおらないといった場合も、今日あるわけでございます。